人は周囲の他者の行動を観察し、特定の行動が共有されていると感じることによって、「規範」の存在を知覚します。人はその知覚に基づき、たとえそれが自らの選好とは異なっていても、規範にしたがった行動をとる傾向があります。この行動がさらに他者によって観察されることで、やがて、実際には誰も望んでいないはずの規範が予言の自己成就的に維持・再生産されます。この一連の現象を「多元的無知」と呼びます。
多元的無知の共同主観的な相互規定メカニズムを検討することは、心の社会・文化的起源を探るうえで重要な意味をもつと考えられます。私たちは、実験室内にミニマルな規範伝達の連鎖を作り出すことで、このメカニズムに迫る試みを行っています。また、多元的無知の生起や伝播に影響を及ぼす社会環境の特質の探究も進めています。
比較文化的視点をもった心理学研究では、暗黙のうちに人々に共有された信念や心理傾向にはさまざまな「文化差」があることが指摘されています。私たちは、こうした文化差の背景には各々の社会において優勢な関係性や社会構造の違いがあるという立場から、心の文化差の規定因の探究を行っています。たとえば、達成原因帰属の文脈における日本人の「自己卑下」(自分の成功については他者の支援や環境、失敗については自己の努力不足に原因を求める傾向)の背景には、他者との間で互いの自尊心を高め合う相互配慮の関係性があり、この関係性のもとでは、自己卑下と他者高揚の交換によって間接的な自己高揚が果たされると考えられます。
近年では、達成原因帰属をめぐる文化差の探究をさらに推し進め、能力の可変性に関する「暗黙理論」に着目しています。日本は欧米に比して努力の価値が高く、能力は伸ばせるという信念(増加理論)が優勢といわれます。私たちは、学習者にとっていかなる信念を持つことが「適応的」かは課題の構造に応じて異なると考え、暗黙理論の文化差を生み出す社会構造や評価システムの差異を検討しています。さらに、特定の暗黙理論が人々に共有され、再生産される過程の探究も進めています。
ある社会や集団において、特定の慣習や思考様式が共有され、維持されている理由について体系的な検討を行うには、その慣習や思考様式を取り巻く生態環境の特質と歴史、環境に適応する過程で作り出された特有の社会構造や人間関係のありよう、それらの維持・再生産に寄与する個々人の心理や行動の特質、といった諸変数間の関係を丹念に探り、描き出すことが必要です。私たちは、社会の現場における慣習や思考様式の「事例」に焦点を当て、マイクロ・エスノグラフィーの研究方法論を用いてその生成・維持過程を継時的に追跡する試みを行っています。
国や民族といった大きなレベルの文化に比して、小規模で人の入れ替わりが頻繁に行われる企業組織の文化は、変化プロセスの把握が比較的容易であるため、心と文化に関わる理論構築に向けた検証が行いやすいという利点があります。
私たちのこれまでの研究では、強い組織文化は組織変革にとって正負両面の効果をもつ(生産性向上のための学習を促進する一方で、環境変化に対応した柔軟な変革を抑制しうる)ことが示されました。現在はさらに視野を広げ、各種の人事制度(ハード)と文化・風土(ソフト)の相互作用の様相や、それらが従業員の心理・行動に与える多面的な影響過程についての検討を行っています。